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 アクセス教育旅行子浦の歴史

子浦をはじめとする南伊豆地方の歴史は古代より住人がいた事は遺跡の調査などで確認されています。
船による物流が始まって‘風待ち港’子浦として歴史書物に登場する様にもなりました。
現在の深刻な過疎化の契機は、蒸気船の登場とも云われています。
ここでは風待ち港として栄えた当時の日本の歴史上に子浦の名前が登場する2つの出来事をご紹介します。
また子浦の地名の由来についてもご紹介いたします。



尾張藩の米や商品を江戸に運び、大豆や諸道具を積み、復航中に遠州灘沖で楫を折られて漂流をし484日後、アメリカ サンタバーバーラ沖で奇跡的に3名がイギリス船に救助されました。
愛知県半田市立博物館の資料によれば、文化10年(1813) 11月3日に子浦へ入港し、翌4日に子浦出港後遭難し、漂流が始まりました。
督乗丸には、子浦出身の3名をはじめとする14名の乗組員がおり、救助された3名の内、2名が帰国を果たし、船頭をつとめた重吉は現在の愛知県半田市出身。もう一人の帰国者は子浦出身の音吉でありました。
帰国まではイギリス船のピゴット船長や、ロシアのイリヤ・ルダーコフ海軍大尉の厚遇があっての事と書き記されています。



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徳川第14代将軍 家茂公は、幕末の動乱の真っ只中の混乱の時代の将軍で不幸にも20才で生涯を終えられました。
14才で将軍になられた家茂公は、16才で皇女和官と結婚されました。尊皇攘夷の波の中、幕府の旗印となり翻弄する若き将軍が子浦にご当宿されたのは、文久4年(1864年)1月2日から4日の朝までの2泊でありました。
家茂公の搭乗した翔鶴丸をはじめとする艦隊が江戸から海路上洛途中、強い西風にあい下田港に1月1日に寄港し、翌日出港しましたが、西風がおさまらず子浦港に入港し、港の近くの西林寺に2泊されました。
300余名が子浦の地で、民家に分宿したり、船中に泊まった様子が古文書等に残っています。当時伊豆一円を治めていた韮山の代官も馳せ参じ、子浦で宿泊されました。前日お泊りになった下田の海善寺にしても子浦の西林寺にしても大騒ぎになった事でしょう。(資料提供:西林寺 )



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子浦・妻良の地名の由来について
 昔々、大国主命(おおくにぬしのみこと)が事代主命(ことしろぬしのみこと:大国主命の長子)ら神々と伊豆七島へ渡られる途中、子浦港へ寄港されました。
 そのおり后(妻)、大津往命(おおつゆきのみこと)が今のの地に、事代主命の御子(子供)、伊波久良別命(いはくらわけのみこと)が今のの地にお泊りになられました。
 このことから子浦、妻良の地名が生まれたとされています。

 《子浦、妻良の神社》
 ・子浦 八幡神社(祭神:伊波久良別命)
 ・妻良 三島神社(祭神:大津往命)


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